コレクション

尾張藩草莽隊(そうもうたい)士396名の借金証文

北地隊・精鋭隊・愛知隊・磅礴隊停滞録抵当借用金契約関係書類

明治10~14年(1877~81) 

51件145点

墨書きの契約書類

秩禄公債金融契約資料

墨書きされた契約書類

北地隊借用金契約資料

 慶応4年(1868)、尾張藩が北越・東北出兵のために募集、編成した部隊員396名の金録公債を担保とした借用金契約の書類である。総数145点におよぶこの資料は、名古屋鉄道などへの資本参加を中心に、明治から昭和前期にかけて名古屋を代表する地方財閥の一つに数えられた富田重助家に伝来した江戸から近代に至る1万1千点余の「富田重助家資料Ⅰ」に含まれる資料である。

 富田重助家は、18世紀の末、知多郡古見村の富裕な農家から商人になることを志して名古屋の商家へ奉公に出た鹿助を祖とし、やがて紅葉屋重助を名乗り、19世紀半ばには、有力商人としての地位を築いた。跡継ぎに恵まれなかった富田家は、藩の留木裁許役を勤め、苗字帯刀を許された豪農で、海西郡江西村の庄屋を勤めた豪農神野家から養子を迎え、幕末から明治初期には洋物取引によって飛躍的な発展を遂げた。明治10年以降、富田家は神野家とともに名古屋を本拠に金融業や地主経営を拡大し、のちに伊藤・滝・岡谷などと並んで中部財界で指導的な役割を果たす富田家・神野家の連合による紅葉屋財閥を形成した。

 「冨田重助家資料Ⅰ」には、明治政府が士族層に発行した秩禄および金禄公債を担保とした金融取引の資料が1500点以上遺されている。明治政府は、旧幕時代から武士層が受け取ってきた給録を廃止するに際し、禄高の数年分にあたる秩禄・金禄公債を華士族に支給した。公債の償還による現金化には数年を要したため、窮乏した士族の中では、一日も早く現金を手に入れたいという要求は強く、公債を担保とした借用金や証券の売買が盛んに行われた。公債の取引にかかわる金融業者や商人たちも多く、富田、神野両家も明治7年頃から公債取引にかかわり、計画的かつ大々的に買い集めた。家禄奉還者に対して発行されていた秩禄公債が中止となった明治8年7月には、約700件の証文が作成されその額面は明治8年12月には12,000円余※に達していた。

 尾張藩草莽隊士396名の金禄公債を抵当にした借用金契約は、この両家が取り扱った公債取引のなかに含まれていたものである。草莽隊とは、幕末期に博徒や農民、下級武士層を集めて編成された部隊の総称である。尾張藩は、慶応4年(1868)、北越・東北出兵のために、集義隊、草薙隊(北地隊)、磅礴隊、愛知隊、精鋭隊などのいわゆる草莽隊を編成した。かれらは、維新後も藩兵として採用されたが廃藩置県とともに隊は解体され、同時に彼らは平民籍に編入された。これ以後彼らに対する給録は支払われなかったが、明治10年、5年から9年までの停滞していた録の支払いが県の仲介により決定され、このとき窮乏した彼らを救うため県は各隊がまとまって支給予定の金禄公債と現金を抵当に入れることを条件に、秩禄、金禄公債の金融を手がけていた金融業者を斡旋したのである。

 両家は、県の斡旋を受け集義隊以外の4隊あわせて396名の停滞禄金禄公債を引き受けた。最多の草薙隊(北地隊)191名はじめ磅礴隊81名、愛知隊48名、精鋭隊76名、各隊別全員一括の金融契約である。一人でも委任状が不足したり、所在が不明になったりと現金化にいたるまで多くのトラブルをかかえることとなったが、総額証券45,690円現金764円81銭5厘に対し、年約7%の利子収入が見込まれた。明治10年3月から4月に結ばれた契約は、磅礴隊、愛知隊、精鋭隊の三隊については、12年ころには、公債の譲渡と借用金の精算にめどが立っているが、人数の多さから、事務処理に最も時間を要した北地隊員全員の証券譲渡と借用金の返済処理が終了したのは明治14年5月であった。

 華士族に発行された公債の内、旧大名家など高額な公債は国立銀行設立の資本となり、1日も早い現金化を希望した困窮者の少額公債は、金融を手がける商人等のもとに集められた。秩禄公債は明治9年、金録公債は明治15年より償還が開始され同17年、39年には全額償還され日本資本主義の原資蓄積に大きな役割を果たしたとされる。草莽隊を含め士族層の給禄にかかる膨大な数の公債金融は、労多くとも確実に富田・神野両家の資本蓄積の基礎となったはずである。

 ※現在の円に対する換算率には、諸説あるが労働に対する対価については、1円=2万円とみる傾向が強い。12,000円→2億4千万円

(桐原千文)

※本資料は常設展示されておりません。ご了承ください。